旧館(鳥居記念博物館)の常設展示

 旧館の常設展示は、鳥居龍蔵の遺品、収集品、研究成果の出版物などから構成されていました。ここでは、展示で扱っていた鳥居龍蔵の業績について、調査地域別に紹介します。

千島アイヌの調査と資料

 1899年(明治32)奉効義会会長郡司成忠大尉の招請により、東京帝国大学から人類学調査のため北千島(クーリル諸島北部)出張を命じられました。軍艦に便乗してまず択捉(エトロフ)島に寄港し、得無(ウルップ)島から最北の占守(シュムシュ)島まで行き、竪穴の遺跡などを調査し、占守島から色丹島に移住させられた千島アイヌの体質・言語・民俗・貝塚・住居跡の遺跡・遺物を調査しました。従来アイヌは土器使用の経験をもたないと信じられていましたが、この調査により千島アイヌが石器を使用し土器を製作したことを明らかにしました。

 また、色丹島の調査の際、住居の模型・羽毛製衣服・人形・木彫のマスクなどを採集していますが、これは千島アイヌの貴重な民族資料です。


台湾紅頭嶼ヤミ族の調査と資料

 日清戦争後、台湾が日本の植民地となると、東京帝国大学理科大学は研究のため学者を台湾へと派遣しました。1896年(明治29)、鳥居は理科大学雇員として人類学調査のため派遣され、台湾東部の山地の原住民について調査しました。

 次いで、1897年に台湾本島東の海上にある紅頭嶼[現在:ホントウ(紅頭)島また、ランシュイ(藺嶼)島]、1898年に北部・中部の山地、1900年に西部の山地および平地と、4回にわたって、台湾山上の先住民の体質・言語・民俗などの調査を完遂しました。台湾の石器時代遺跡を調査し貝塚の発掘をおこないました。

 従来、人類学・考古学者はスケッチによっていましたが、鳥居は1896年、台湾各地の探査に写真機を取り入れ、自ら撮影しました。これが写真機を人類学・考古学の研究に用いた最初の事例です。

 なお、紅頭嶼の先住民をヤミ族といいますが、これは鳥居の命名によるものです。


中国苗族の調査と資料

 鳥居は台湾との比較のため、中国の南西部山間の諸族、特に苗族(ミャオ族)の調査を希望していましたが、1902年(明治35)に東京帝国大学から認められて実現しました。

 貴州省において苗族の言語・民俗などの調査をおこないました。さらに南雲省、四川省でロロ族などの調査をしました。


中国東北部の調査と資料

 1895年(明治28)、東京人類学会から派遣されて遼東半島(中国遼寧省)を徒歩で調査しました。これが鳥居による海外調査の第一歩です。この調査で石器時代の遺物を発見し、海城県では城壁の積石中から獅子狩を図刻した台石を発見しました。また柝木城付近で2個のドルメン(支石墓)を発見し、ドルメンが中国東北部に存在していることを明らかにしました。 1905年、東京帝国大学は中国東北三省(遼寧、吉林、黒竜江の各省)に、鳥居を含む研究者たちを派遣し、学術調査にあたらせました。このとき鳥居は、石器時代遺跡を発掘し土器石器を採集した。また、遼陽でせん槨墓を発掘しました。これは中国東北部における漢代墳墓の最初の発見です。


モンゴルの調査と資料

 1906年(明治39)、モンゴルのカラチン王府女学堂(女学校)の教師に招かれたきみ子夫人とともにモンゴルに行き、民俗の研究のかたわらモンゴル語を学びました。翌年早々、夫人の出産のためいったん帰国し、誕生したばかりの長女幸子を抱いて夫妻で再びモンゴルに行きました。東部モンゴルを中心に興安嶺(大シンアンリン山脈)を踏破し、北はブイルノール湖畔にいたる間の人類学・考古学・民族学的調査をおこない、遼王朝の遺跡や遺物について調査研究をしました。

 東部モンゴルにおいて、その規模が最も大きく壮大な遺跡を残したのは、10世紀から12世紀にかけて繁栄した、遊牧民であった契丹族が建てた遼という王朝です。鳥居夫妻は1908年以来たびたび、この遼が残した中京城跡、祖州城跡、慶陵(遼皇帝陵)、慶州城跡などの遺跡を踏査しました。その結果、遼代文化の重要性が世に知られるようになりました。


朝鮮半島の調査と資料

 1910年(明治43)、朝鮮総督府の嘱託となって予備調査をおこない、さらに翌年の第1回調査をはじめとして、1912年の第2回調査から1916年(大正5)の第6回調査まで、毎年朝鮮半島の石器時代の遺跡調査と人類学上の調査をおこないました。ドルメンの研究などに多大な成果をあげています。かたわら朝鮮のシャーマニズムについても調査しました。

 1932年(昭和7)、中国東北部の調査旅行のとき、遼と高句麗との関係を明らかにするため、朝鮮半島に入り、開城、慶州、ソウルなどを調査しました。


シベリア・サハリンの調査と資料

 1911(明治44)、樺太庁の援助で南サハリン(南樺太)を旅行し、ウイルタ(オロッコ)、ニヴヒ(ギリヤーク)、樺太アイヌの人類学上の調査をおこない、民俗品を採集しました。

 1919年(大正8)には、東京帝国大学から派遣されてバイカル湖以東の東部シベリアを調査旅行しました。ソビエト連邦(現ロシア)の学者の研究調査の業績を調べ、ヤンコフスキー半島の大貝塚をはじめ各地の遺跡、クルガン墳墓を調査し、ブリヤートモンゴル人、その他各種民族を人体測定して人類学的な調査をしたほか、シャーマニズムについても調査しました。

 1921年、北サハリン(サハリン州)を旅行し、石器時代の遺跡・遺物やニヴヒ、ウイルタについて調査しました。このとき、キジ湖付近と黒龍江(アムール河)畔でニブヒの身体測定や諸調査をし、石器時代遺跡を調査しました。

 1928年(昭和3)には、黒龍江畔の石器時代遺跡岩壁画などの調査をしました。


南アメリカの調査と資料

 1937年(昭和12年)から翌年にかけて、外務省から文化使節としてブラジルに派遣され、あわせてペルーやボリビアなど諸国の学界を歴訪しました。ブラジルでは石器時代遺跡、ルンドの洞窟、リオデジャネイロでは貝塚を視察して、サンパウロ州では邦人開拓地の石器時代遺跡を訪ねました。サントスでは貝塚を在留邦人と発掘調査しました。マラジヨ島の古文化遺跡を調査し、その後アマゾン川をさかのぼってペルーにいたり、ペルー及びボリビア各地のインカ遺跡を調査し、関係資料を収集しました。帰路ロサンゼルスに立寄り、貝塚を調査しました。


日本国内の調査と資料

 鳥居の調査研究活動の原点は、故郷徳島にあります。1886年(明治19)、東京人類学会が結成されたことを知り、入会。翌年には会誌に「阿波国二古墳ノ記」を投稿し、掲載されました。これが学界デビューでした。1888年、坪井正五郎が徳島に来て鳥居宅に宿泊しました。これを機会に鳥居が中心となり、徳島人類学材料取調仲間(のちに徳島人類学会と改称)を組織しました。この後、鳥居の活動は徳島を離れますが、徳島市城山貝塚の発掘など、故郷とのつながりは続いており、薫陶を受けた郷土史家の活躍が知られています。

 グローバルな活動ばかりが注目されがちですが、関東、近畿、九州、沖縄など、日本各地での調査活動やそれに伴う著作も多いことにも注意すべきです。

展示室のようす(左:2階、右:3階)

[旧館の概要]